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論文捏造にまつわるエトセトラ
最近発行された筋収縮研究で知られる杉晴夫先生の著書「論文捏造はなぜ起きたのか?」(光文社)を読ませていただきました。このところ世間を賑わせている論文捏造のニュースを取り上げ、その背景を読みとくという内容です。とはいえ新書ですから、このテーマを徹頭徹尾掘り下げて解説しているわけでもなくて、明治時代の日本人研究者の活躍に言及する章があったり、先生自身の研究にちょっと触れている部分もあったりします。実際、本書を執筆した動機は、「政府の国立大学の独立行政法人への改組の強行と、これに続く巨額の「競争的研究資金」の導入により、わが国の生命科学が滅亡の危機にあると感じたから」とのことで、論文捏造の話題ばかり述べているわけではないですが、これらの問題点は、杉先生によると一連の論文捏造の背景にあるようです。
杉先生は、
「そもそも、「研究者がデータを改ざん(論文捏造)してはならない」ことは、「本屋や売店で万引きしてはいけない」「試験でカンニングしてはいけない」のと同じく、社会人として自明のことではないか」
と一刀両断されていますが、かといって、頭ごなしに「論文捏造は言語道断であり根絶せねばならない」とは考えているわけではないようです。「科学史上の天才もデータ改ざんを行なった」と題されたセクションでは、ガリレオが偉大な洞察力で法則を導き出したうえで、実験結果を自身の理論に引き寄せたことが紹介されていて、ニュートンやメンデルにも同様のことがあったとされています。これらはある種の改ざんではありますが、「偉大な研究における些細な瑕疵として忘れ去ってもよいであろう」と述べています。また、「時代の審判に耐える実験のみが真理として後世に残るのである」とし、別のセクションでは、「いくら捏造論文が蔓延っても、学問の進歩はこれによって基本的に影響を受けることはないであろう」とも述べられています。本書中では「カス論文」という表現も使われており、影響力の低い論文の存在を否定するような言説は個人的に好きではないですが、真実こそ時の試練に耐えるのは確かだと思います。“Truth stands the test of time”ですね。
本書を読んでいて、個人的に違和感を覚えたのは以下の一節でした。
「ところで、投稿された論文は、商業主義による理不尽な編集者レベルでの却下を除き、通常二名から三名の論文差読者の審査に委ねられる。ここで論文の代表著者(Corresponding author 必ずしも論文の筆頭著者ではない)は複数の差読者を相手にして、論文の発表価値の有無を賭けて論争しなければならない」
確かに、差読者は論文の問題点を指摘したり、場合によってはリジェクトの提案をしたりすることもあると思います。しかし、“論文の発表価値の有無を賭けて論争”する感覚を持ったことはありませんでした。特に、インパクトファクターの比較的低い、投稿される論文はどんどん発表していきたいオープンアクセスのジャーナルともなると、査読も甘くなりがちで“論争”とは程遠い感があります。そもそも差読は、著者の立場からすれば自らの論文の質をより高める機会と位置付け、差読者の意見を積極的に受け入れるというのが(少なくともアクセプトを勝ち取るという観点では)得策といえます。とはいえ、一流雑誌に投稿すると、非常に厳しい目で査読されるのも事実で、そのような経験を多く積まれた杉先生の率直な肌感覚はそうなのでしょう。最先端の科学研究においては、成功者に対する他者からの嫉妬も相当なもののようで、そんな状況下で無事発表にこぎつけるためには、論争する覚悟も当然必要ということなのだと思います。
嫉妬ということで言えば、北里柴三郎がドイツから帰国した際の国内医学界の無関心ぶりには、日本人に通底する島国根性にも通底するものが感じられます。日本を飛び出し海外で活躍する日本人に対し、成功しているときこそ称賛するものの、ひとたび評価が下がろうものなら手のひらを返したように批判に転じるという現象は、いまだ日常の出来事のように思われます。これは、何か問題を起こしてしまった人物が最終的に止むに止まれず自殺に至ってしまうこととも関係があるように思われます。
論文捏造をきっかけに多くのことを考えさせられる良書でした。興味のある方は手にとってみてはいかがでしょうか。